みなさんはそうめんにどのような歴史があるのかご存知でしょうか。
現在、多くの人々が当たり前のように食べているそうめんですが、そうめんには長い歴史があります。
今回は、そうめんの歴史について、うどんとの共通点も交えながらご紹介します。
□そうめんの歴史とは?
そうめんは、古代中国の後漢や唐における文献で出てくる「索餅(さくべい)」が日本へと伝わったことが始まりという説が有力とされています。
索餅とは、奈良時代に中国から伝わった唐菓子の1つで、縄状の形をしていたことから麦縄とも呼ばれています。
平安時代には、中国の故事に習って、七夕の日に索餅を食べれば病にかからないとして、宮廷の七夕行事に索餅が取り入れられていました。
この頃はまだ、場所や時代によってそうめんの形や食べ方は違いましたが、いつの時代でも変わらなかったことがあります。
それは、もてなし料理として振る舞われていたということです。
主人に献上したり、お客さんをもてなしたり、何かの行事ごとでごちそうにしたりと、そうめんは特別な日に食べられていた料理でした。
そうめんが日本各地に広がる元となった三輪素麺は、安土桃山時代頃に三輪神社の神主によって始められたとされています。
室町時代になると、ようやく「そうめん」という名称が記録され、この頃からそうめんが定着していったとされています。
この時代あたりから、寺院の間食としてそうめんが食べられるようになり、現在と同じような形、作り方などが形成されていたと考えられています。
文献にも度々登場するようになりましたが、まだ庶民には身近なものではなかったようです。
そして、1750年頃の江戸時代から徐々にそうめん作りが盛んになっていきました。
江戸時代に諸国名産に登場するそうめんは、東日本産もいくつかありましたが、やはり小豆島をはじめとする西日本が多く占めていました。
全国の産地を見てみると、良質な小麦や塩を収穫できる地域や、それらを集めやすい地域が良いそうめんを作ることに繋がったのでしょう。
□うどんとの関係性や共通点とは?
うどんの文献上の初出とされているのは、奈良の法隆寺にある史料「嘉元記」での記録です。
そうめんに比べると、うどんが文献の登場するのは少し時代が後になり、室町時代に入ってから頻繁に見られるようになります。
室町時代の節用集や運歩色葉集などでは、ウドンの他にウントンやウンドンなどと表記されています。
このように、うどんはそうめんと比べて、言葉の表現が多いのが特徴と言えるでしょう。
そうめんは公家や寺社が文献として遺した記録によるものが多いですが、日本各地には様々な特徴を残している地域性豊かな麺が多く伝わっています。
例えば、山梨県のほうとうや九州のほうちょう汁、だごじるなどは、うどんの一種と言える形であり、古くから現在に至るまで庶民の主食として愛されてきました。
秋田の稲庭うどんは、製法がそうめんに似ていて、うどんとそうめんの中間くらいの太さです。
この稲庭うどんと宮城のうーめんは、製法がそうめんと似ているものの、そうめんより少し太めであり、引き延ばしの際に油を使っていないという違いがあります。
この他にも、それぞれの土地特有のうどんはたくさんありますが、その中でも特に外せないのが香川県の讃岐うどんでしょう。
このように、そうめんとうどんは、共に現在に至るまで多くの人々に愛され、各地域に様々な特徴を持ったそうめんやうどんが存在しています。
□まとめ
今回は、そうめんの歴史について、うどんとの共通点も交えてご紹介しました。
お米のくりやでは、日本三大素麺の1つである小豆島の手延素麺を取り扱っております。
この記事を読んで、地域特有のそうめんを食べたいとお考えの方は、ぜひ1度最高級のそうめんを注文してみてはいかがでしょうか。